ステップ 7:霊的な習慣
イエスのようになる
イエスの弟子の二つ目の目的はイエスのようになることです。私たちは常に何かの形に変えられていて、それには良いものも悪いものもあります。私たちがどのように変えられているのかに大きく影響するのが、私たちの習慣です。私たちが日常的に行っていることは、私たちを何かしらの形へと変えています。
初めに、例として健康を考えてみましょう。
どんな習慣が健康的ですか?
逆に不健康な習慣にはどんなものがありますか?
習慣は体の健康だけではなく、私たちの内側にも影響します。例えば多くの人が朝起きてまず携帯電話をチェックします。また、朝起きたらまずニュースを見る人、メ ールをチェックする人、カ レ ンダーやス ケジュ ールをチェックする人、SNSやYouTubeを見る人もいます。
朝起きてまずニュースを見る人は何を大切にしていると思いますか?
まずスケジュールをチェックする人は何を大切にしているでしょうか? まずSNSを見る人はどうでしょうか?
習慣は私たちが何を大切にしているのかを明らかにするだけではなく、それをさらに強めて、私たちがさらにそれを大切にするように働きます。
もし毎朝まずは祈り、聖書を読み、同居している人がいるならその人を大切にする何かを行うまで携帯電話を触らないことを習慣にしたら、あなたはどのように変わるでしょうか?
イエスのようになることを目指す中で、「どんな習慣が私をよりイエスのようにするか」は大切な問いです。答えは、私たちの心と人生に聖霊が働く場所を作るための習慣です。それが霊的な習慣です。霊的な習慣は、霊的鍛錬やクリスチャン的習慣などとも呼ばれます。
テモテへの手紙 第一 4章7-8節
7 … 敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。8 肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。
体のト レーニングと同じように、霊のトレーニングにも忍耐が必要です。何もせずにぼーっとしていては、イエスのようになれません。私たちは御霊が私たちのうちで働くための環境と機会を積極的に作り出していく必要があります。そのための方法が、霊的な習慣です。
では、霊的な習慣とは具体的に何を指しているのでしょうか。実はネクストステップで、すでにいくつもの霊的な習慣を学んでいます。例えば、祈り、聖書を読むこと、黙想、他のクリスチャンと集まることなどです。初代教会のイエスの弟子たちも、共にパンを裂くことや祈りなどの霊的な習慣を守っていました。
使徒の働き 2章42節
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
このステップでは、イエスが 教えた霊的な習慣を学んでいきます。ここで紹介する習慣は私たちの心の偶像と戦うためのものです。偶像とは偽の神の像だけを指すのではなく、私たちが人生の究極的な意味や満足を求めて神の代わりにしてしまうもののことです。自分の心の偶像を明らかにするために、次の下線部に何が当てはまるかを考えてみてください。「もし_________があれば、私は幸せになれる。」私たちが幸せと満足を神から求める以上に他のものから求めているのであれば、それは偶像です。その偶像の奥にある心の思いを探ると、四つの主な心の偶像にたどり着きます。
安全・ 安心
「もしお金の余裕・ 健康 ・心の安定があれば、私は幸せになれる。」
承認
「もし人に認められるなら、私は幸せになれる。」
快楽
「もし求めている物を買う・手に入れる・楽しむことができるなら、私は幸せになれる。」
支配 ・力
「もし状況が思い通りになるなら、私は幸せになれる。」
このような罪からくる心の思いと戦うために、四つの霊的な習慣があります。
偶像: 安全・ 安心
霊的な習慣: 献金
偶像: 承認
霊的な習慣: 沈黙と孤独
偶像: 快楽
霊的な習慣: 断食
偶像: 支配・ 力
霊的な習慣: 安息日
イエスの弟子はこれらの霊的な習慣を定期的に行うべきです。また、特定の誘惑を強く感じるときには、とくにそれに合わせた習慣を行うことが大切です。では、一つ一つを見ていきましょ う。
習慣 1: 献金
イエスが新約聖書の中で最も頻繁に教えているのは神の国についてですが、その次に頻繁に教えているのはお金についてです。聖書は私たちが二つの方法でお金を使うようにと教えています。それが、 十分の一献金と寛大に捧げることです。
十分の一献金とは自分の収入の十分の一を神にお返しする習慣です。その理由は私たちの持っているものはすべて100%が神のものだからです。そこから神は10%である十分の一を地域教会に捧げることで神に返すようにと教えています。1
計画的な献金として定期的に十分の一献金を行うことで、私たちは神を信頼して、 自分の安心と安全を神に委ねることを自分の心に教えることができます。2 私たちが初めの10%を神に返すときに、神が残りを祝福して私たちの必要を満たしてくれると神は約束しています。3 イエスも私たちのお金の使い方が私たちの心に影響すると言っています。
マタイの福音書 6章21節
21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
定期的な献金(十分の一献金)という霊的な習慣は、私たちが究極的な安心と安全を神から求めるように、私たちを訓練します。また、私たちの周りにある必要に気がついたときに寛大に捧げることでも、私たちは自分の心を訓練することができます。4
テモテへの手紙 第一 6章17-19節
17 今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、18 善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、19 来たるべき世において立派な土台 となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。
習慣 2: 沈黙と孤独
イエスの弟子は、神とお金の両方に仕えることができないのと同じように、神と人 々のどちらも喜ばせようと生きることはできません。5
ガラテヤ人への手紙 1章10節
10 今、私は人々に取り 入 ろ うとしているのでしょ うか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。
人から褒められたり、受け入れられたいと感じるときに、私たちはひとりになって自分を完全に受け 入れてくれている神と時間を過ごす必要があります。イエスもこの習慣を持っていました。
ルカの福音書 5章16節
16 だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。
またイエスは忙しさの後で、弟子たちに寂しい場所に行くようにと伝えました。
マルコの福音書 6章31節
31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく 休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。
寂しいところに一人でいるときに、イエスは何を考え、何を祈ったのでしょうか。もしかしたら、イエスは洗礼を受けたときに父なる神から聞いた言葉を黙想していたのかもしれません。
マタイの福音書 3章17節
17 …そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
イエスは注目を浴びていて、 多くの意見や批判が浴びせられていました。けれど、その中で本当に大切で真実な声は神の声だけでした。
定期的に静かな場所に行き(砂漠のように人から遠く離れた場所である必要はありません)、 祈り、聖書を読む時間を取ることは、私たちが人の声にではなく、キリストにあって私たちを受け 入れてくれている神に希望を置くために大切な習慣です。
習慣 3: 断食
断食とは、 霊的な訓練のために一時的に食事を取ることをやめることです(聖書の中で人々は、たとえば祈り、罪の告白、なげきなどのために断食をしました)。断食は、「快楽」という偶像を打ち砕きます。性的な不道徳、強欲、嫉妬などの罪を掘り下げていくと、心に「快楽」の偶像があることに気がつくことが多くあります。罪の誘惑にあうと、私たちは「この欲求さえ満たされれば、自分は満足できる」と思います。そんなとき、欲求を満たすことが、私たちの偶像になっています。6
断食は、私たちが肉の欲求を満たすことによってではなく、神から体と心の満足を得るようにと訓練します。 食べ物はそれ自体では悪いものではなく、食べるのも飲むのも神の栄光のためにするべきことです。7 しかし、 食べることから一時的に離れることは(例えば一食であっても)、私たちにとって食べ物よりも神が必要であることを教えてくれます。
イエスも断食を行っていました。
マタイの福音書 4章1-2節
1 それからイエスは、悪魔の試こころみを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。 2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
イエスの弟子たちはイエスが地上で一緒にいるときには断食をしませんでしたが、イエスは断食の仕方を弟子たちに教え、イエスが去った後には弟子たちは断食するように教えました。8
ルカの福音書 5章35節
35「...しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
「花婿」はイエスのことで、「彼ら」はイエスの弟子たちのことです。断食を行うときには、体にも気を遣いながら行う必要があります。 例えば、短い断食から始める(一食や数時間など)のも良いでしょう。体の反応にも気を遣い、心配があれば医者に相談しまし ょ う。場合によっては、全ての食事を断食するよりも、お菓子やコーヒーなどの特定の食べ物を断食する方が良い時もあります。
初期のクリスチャンの多くが週に二回、 断食をしていました。 定期的に断食を行うことは良い霊的な習慣です。また、 特に欲求という偶像の力を感じるときに断食を行うことは大切です。
習慣 4: 安息日
安息日は、神が創造の中で模範を示し、9 イスラエルに十戒の一つとして与えた教えです。 10 ユダヤの伝統では、イスラエル人は安息日には仕事を行いません(イスラエル人は一週間の最後の日である土曜日を安息日としています)。
紹介した霊的な習慣の中で、 安息日だけは山上の教えというイエスの教えの中で触れられていません。 11 さらには、イエスの人生を学んでいくと、弟子たちに安息日を守らなくても良いと教えているように思える場面もあります。12 しかし、イエスは安息日という霊的な習慣を禁止するのではなく、イエスに安まるという究極的な安息に弟子たちを招いているのです。
マタイの福音書 11章28-30節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
イエスの時代のユダヤ人たちは、安息日への神の思いを誤解していました。なので、イエスは彼らの考えを正しています。
マルコの福音書 2章27節
27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。...」
イエスの時代のユダヤ 人たちが学ぶ必要があったのは、この言葉の後半部分でした。しかし、現代の私たちに必要なのは「安息日は人のために設けられたのです」という部分ではないでしょうか。これは、神が休みの日を人々に贈り物として与えようとしていると言うことです。
安息日を実践することは、支配と力という偶像を打ち砕きます。自分の思い通りにしたいことがある時に、働くのをやめて休むのはとても難しいです。しかし、仕事や忙しさ、自分の成功が神と同じくらい大切になってしまうなら、立ち止まって休むことを選ぶ必要があります。私たちが立ち止まって休むときに、神が最終的に全てを支配していることを思い出せます。
四つの霊的な習慣の中で(献金、沈黙と孤独、断食、安息日)これまでやったことのあるものはありますか?
それは、あなたがイエスのように変えられることをどのように助けてくれましたか?
今のあなたの人生で優先的に取り組むべきものはどれですか?
1 マラキ書 3章8-10節
2 申命記 14章22-23節
3 マラキ書 3章10節
4 コリント人への手紙 第二 8-9章
5 マタイの福音書 6章24節
6 ピリピ人への手紙 3章19節
7 コリント人への手紙第一 10章31節
8 マタイの福音書 6章16-18節
9 創世記 2章1-3節
10 出エジプト記 20章8-11節
11 マタイの福音書 6章1-18節
12 マタイの福音書 12章1-14節
13 詩篇 121篇
14 ヨハネの福音書 5章17節
15 コロサイ人への手紙 1章17節